初めての海外生活、駐在は?

弓場 俊也


 

イタリアに長く住むと全てが日本と対極の国ではないだろうかと思うことがあります。

最初の1年は異文化理解に苦しみました。家族同行だったので幼い娘2人の目にはどのように映ったのだろうか。長女はミラノ日本人学校1年生、次女は地元の幼稚園で、どちらも親が必ず送り迎えしなければなりませんでした。子供の誘拐事件が多く治安が悪かったからです。夜に夫婦だけで外出する時にはベビーシッターを頼みました。ミラノ市内では一戸建住居はなくアパート住まいになります。家具が傷むという理由で南側より北側向きの家賃が高いのは日本と逆です。かなり広い間取りで天井も高く、床は大理石です。玄関ドアは日本とは反対に内側に開きます。その木製ドアは分厚くて中に鉄板が入っています。鍵穴も3つありました。玄関ゲートにはガードマンが常駐監視しています。

ビジネスの取り組みも日本と異なります。会社としての付き合いより、人間関係が重要になります。この国では人脈ネットワークの構築がビジネスを広げる理想的な方法です。またイタリア社会では仕事よりも家庭優先であることを忘れてはいけません。そのためビジネスは結論を急がず時間を掛けて進めることになります。面談の約束をしても日本のように時間きっかりに訪問することはご法度で、15~30分は遅れて到着するのがマナーです。最初私は理解できなかったのですが、そのうち何とも言えないぬるま湯のような感覚になり、いつの間にか私も寛容なイタリア人になっていました。日本に初めて出張したイタリア人同僚が東京駅で数分遅れて到着した新幹線のアナウンスで車掌が陳謝するのに驚き「数分遅れで誰か死ぬのか?」と皮肉を言われました。ちなみにミラノの地下鉄には時刻表はなく、始発と終電の時間表示しかありません。

私の担当したアパレル産業では98%が中小企業で、高級製品は主に零細家内工業でした。

彼らは「多品種少量生産」で高付加価値製品ですが、日本は反対に「少品種大量生産」でコストを下げ廉価製品が市場にあふれています。少子化の進む日本もそろそろイタリアを見習うべきではないでしょうか。

日本と同様に一般の人達は英語が話せません。そのために伊語は必須でした。駐在事務所は総勢50人くらいでローカルスタッフ全員は英語ができますが、駐在員は着任すると3ヶ月は英語可、その後は伊語のみという暗黙のルールがありました。そのおかげで、1年後にはビジネスで不自由なく使えるようになっていました。活動範囲はEU全域でしたがファッション関係なのでフランス、ドイツが主でした。パリコレ、ミラコレのファーションウィークには日本からのお客様が押し寄せ、そのアテンドで多忙になります。重要人物が来られるときには空港までお出迎えするのも駐在員の役目でした。まだバブル期の余韻が残っていた頃で仕事と直接関係のない人までたくさん来られました。当時は家庭よりも仕事優先で、家族には大変な負担と迷惑を掛けたと平身低頭するしかありません。その代わり8月のバカンス、12月のクリスマス休暇には家族でドライブ旅行を長期間楽しみました。クルマでの旅行の利点は予約する必要がないことです。飛び込みで断られたら次の街へ行けばいいからです。小さな子供連れだったので仏ホテルチェーンの「ノボテル」をよく利用しました。両親同伴の場合は16歳以下の宿泊、食事とも無料でした。欧州各地にあり家族旅行には最適でした。