最初の海外出張

松浦 光吉


 

1974年8月某日、最初の海外出張の出発日でした。Departureは夜10時頃の為、カバンを持って会社に出社、通常通りの出社でした。夕刻6時頃(そろそろ会社を出た方が良いかと考えていたその時に)H支部長より「おい、しょうまつ、そろそろ出発しないと遅れるぞ」と声を掛けられH支部長に思いカバンを持って頂き、タクシーを拾い羽田空港に向かいました。何故、「しょうまつ」と呼ばれたかを端的に説明すると、同じ課内に「松浦」が2名いた為、電話交換手(当時未だダイアルインになっていなかった)が、区別するために「だいまつ」「しょうまつ」と名付けていた為で、私が小さかったので「しょうまつ」でした。

 帰国後、Pending事項が無いかチェックする為にテレックスの発信控を読んでいると、弊員が出発後、H支部長自らが、デユセルドルフ駐在員のMさん宛に「今、松浦君が出発したので、面倒見てくれ。」と記載した1通のテレックスを見つけました。最初の海外出張を心配されたのでしょう。現地で私のアテンドを依頼してくれていた事が判り、心遣いに思わず、ぽろっと涙が滴りました。自ら一本指打法でテレックスを打っている姿が目に浮かびます。又、現地支店長はお酒好き故、サントリーのウイスキーを持って行けとその代金も頂きました。

 JALで、アンカレッジ、ハンブルグ経由フランクフルトに飛んだわけですが、DC-8の窓から外を見ると翼が大きく揺れており、本当にこれで大丈夫かと(翼が折れないかと心配しつつ)今からの出張の行方を含め不安が湧き出ていました。

 海外での第1日目は、デュッセルドルフで、到着日M駐在員のご自宅で夕食をご馳走になりました。そこで、嫁さんは誰が良いかとの質問を受け、飛行機の中のスチュワーデスと答えた所、何年か後に、Mさんから「君は昔からスチュワーデスが好みだったなあ」と聞かされ、かかる些細な事を良く覚えて頂いたとびっくりしました。

 M駐在員宅の夕食接待で、緊張感が和らぎ過ぎてしまったのか、翌朝は寝過ごして飛行機に乗り遅れるところでしたが、最初の目的地西ベルリンに無事到着。

 ヨーロッパの日のでは遅く、晴れの日も少なく、私の言葉少ないニヒルな性格は、この時から培われたものでしょうか?

 先ず、テンペルホッフ空港(当時西ベルリン)で、びっくりしたのは空港の滑走路内に装甲車が難題も走っており、カービン銃を持ったアメリカ軍兵士が多数警戒していることでした。これを見て、再度緊張感が増してきました。(西ベルリンは、東ドイツの真っただ中に位置し、西側と直接の交通手段は飛行機だけの為、警戒が厳しくなっていました。)

 これから人の助けを借りず自分の頼りない英語での仕事の行方を案じました(英語そのものがあまり役にたちませんでしたが)。

 ウイルヘルム教会近く、オイロッパ・センターの隣のビルにベルリン事務所があり、先ず挨拶に出向いた後、ベルリン事務所勤務のHさん(オーストリア国籍)に、チャーリー検問所(ベルリンで唯一の歩行者と自動車通行の為の検問所)経由、両サイドを鉄条網でガードされた高速道路をベンツで走り、ライプチッヒ(当時東欧で最大の見本市開催地)のZum Loewen Hotelまで送ってもらいました。

 緊張感一杯の出張最初の二日間でした。

 この後、約20年間しんどいながらも面白かったと言える様々な出来事に出会うことが出来ました。